なぜこんなところへ行けたんだろ~?

アクエリアス

2008年07月29日 01:51

わたしは少年隊や男闘呼組のスタイリストをやっていて、
少年隊でエジプトへ 男闘呼組でトルコへ写真集の撮影で連れて行ってもらったことがあります。

(なぜか少年隊の写真集は今探してもない!
でも今日は男闘呼組で行ったあの岸壁の教会のことがやたら思い出されるから今度またさがせばいいや。。。。)

でね、トルコのイスタンブールをはじめとし、世界の七不思議といわれているカッパドキアにも行ったのです。
最近、そこの多分ギョロメ地区の教会
(たぶんユランル教会(蛇の教会)←本当は名前よくわかんないんです。クルチュラル教会かもしれません。誰か知ってますかねぇ。渓谷の岩肌にたった寺院です。道があるようでないようなところもあり普通の観光ではいけません。))
ってところに行ったことが思い出されるのです。

トルコはイスラム教ですよね~。
でもトルコのカッパドキアという地方は迫害を受けたキリスト教徒が隠れ住んでいたらしいのです。



↑ここは登るまで険しい山道を行くのでビデオのカメラマンが本当に大変そうでした。
(このときはビデオも売り出されたのに手元にない!
いったい何処にやったのか?まあそんなことはどうでもよいですね・・・・・。)


以下説明文は引用します。

イエスの殉教後、聖パウロは、ローマ帝国の圧政を逃れてアナトリア地方に来て布教し、教会を建立した。
この地方の住民は、いつも岩の多い場所に好んで住んでおり、山の上、谷、深い峡谷の岸辺に家を作った。石を利用し、あるいは自然の岩を穿って住んでいた。住民の多くは主に農業に従事しており、特にぶどう栽培と家畜の飼育が主な仕事であったが、農地や牧草地は町に住む地主のものであった。住民は、作物の大部分を占領軍や、神殿の維持のために供出するよう強制されていた。

ローマ、あるいはアラブ人の宗教的迫害から逃れてきた2世紀頃の初期のキリスト教徒は、カッパドキアの岩の谷に安全な場所を見つけ、そこに住むために、ヒッタイト時代から使われてきた方法で岩を削り、教会や修道院・地下都市を作り、内部をフレスコ画で飾った。
11世紀後半にセルジュク族がやってきた時、カッパドキアには1000を越える宗教的施設があったらしい。


↑はこのサイトよりコピーさせてもらいました。 http://www.asahi-net.or.jp/~pp9y-mtk/turkey2.htm

わたしはここ数年エッセネ派が気になって気になって仕方がないのですが、
もしかしてこの教会が関係しているからかもしれません。



そういえば中はこんな感じだったような気がします。↓


(この写真は http://www.pbase.com/dosseman/capadocia_turkey よりお借りしています。)

この頃は世界の遺産なんてなんにも考えてなかったので、毎日どこに行ってるのかさえ意識してなかったし
写真も自分では撮ってなかったのですね・・・
今思えばもったいないことをしました。


あ~~~なんでもっと写真を撮っておかなかったんだろ~~~(泣)


※今日未明に書いたのですがさっきまで教会を協会と書いていました。
お恥ずかしい・・・・・(アセ;
なんかおかしいな?とは思っていたのですが・・・・・。
なんにも意図はございません。書き直して訂正いたしました。<(__)>



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